大川隆法総裁の書籍『心と体のほんとうの関係。』より抜粋で、人間関係に関する法話をお届けします。
どのような問題もプラスに受け止める
大きな目で見たなら、一生のうちに、家庭に病人を持たない人は、ほとんどいないかもしれません。病気、事故、不慮の災難、そして、それに基づく死。こうしたものは人生の折々に見受けられるものです。それは人びとを深い悲しみの淵に立たせることになります。
現実に病人をかかえ、看病に明け暮れている家庭は、とても暗くなっていることでしょう。ただ、私は、その暗い面だけを、あまり強くとらえすぎてはいけないと思います。
人間は、本体である魂が肉体に宿って修行をしている存在です。たとえ、その体が病に冒されて苦しんだとしても、魂そのものは、地上を去って、あの世に還ったときには、元どおりの完全な姿になります。
病に苦しんでいる姿は、あくまでも、この地上で修行をしていく途中に現れてくるものであって、永続的なものではありません。たとえ、その目には、どんなに地獄の苦しみのように見えたとしても、肉体というものから逃れ去り、魂そのものとなったときに、人は自由自在の境地に入ることができるのです。
そうである以上、たとえ病気に苦しみ、やがて、その病に倒れて帰らぬ人となったとしても、死んでから後のことのほうがはるかに大事であるわけです。この世は、あくまでも、「あの世に還るための準備期間」であり、「あの世に還るための予習」なのです。
したがって、どのような問題が降りかかってきたとしても、その事件を、その事柄を、自分の魂にとって、プラスに役立てる方向に考えていくことが大事です。それが、看病する側にも看病される病人の側にも、望まれることなのです。
苦しみや悲しみは魂を光らせるための“ヤスリ”
私は、看病して疲れている人に対し、あえて酷(こく)なことを言うつもりはありませんが、その人にとっては、「家族に病人が出た」という厳しい環境のなかで、いかに朗(ほが)らかに、いかに明るく、いかに希望に燃えて生きられるかが、本人の魂を光らせるための試練になっているのです。
あらゆる苦しみや悲しみを、魂を光らせるためのヤスリだと思ったときには、どんな苦しみや悲しみにも耐えていけます。
むしろ、そうした悲しみのときにこそ、宗教的な飛躍というものが訪れることがあります。そういうときにこそ、人間は、救いを求め、魂の領域において一段と飛躍することができるのですね。
病人が出たからといって、それを自分の不幸の言い訳にすることなく、それによって自分が魂の修行の機会を与えられたことに感謝し、そのなかで自分の心を磨いていこうと思うことが大切です。
病気はほんとうの愛を知るチャンス
愛というものは、その基礎に「忍耐と寛容」を伴っているものなのです。 調子のよいときにだけ相手を愛すること、たとえば、夫の調子がよいときにだけ夫を愛したり、妻が美しいときにだけ妻を愛したりするのは簡単ですが、夫が仕事で失敗したり、妻の美貌が衰えてきたりしたときに、なおも愛するということは、なかなか難しいことでしょう。
しかし、それでも愛していこうとする、その忍耐と寛容の心が、やはり、愛というものを裏打ちするものだと思うのです。 病人に対しても同じです。家族として仲よくやってきた者のなかに不幸が起きたなら、それを辛抱強く見守ることが大事なのです。
※「ザ・伝道」7月号(No.222)に掲載されています。機関誌は全国の幸福の科学の精舎・支部にご用意しておりますので、ぜひお気軽にお立ち寄りください。
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