――法話「『幸福の科学大学創立者の精神を学ぶ』II(概論)」より
【動画】学問の本質は、真理の探究から始まっていく―― ―大川隆法総裁の提言 未来を築く言葉―
「私は、学問の本質というのはやはり真理の探究から始まっていくものだと思うし、その真理というのは、好奇心がもとにはなりますけれども、できるだけ幅広く、深く、遠くまで見通したいものだと思っています」(2014年8月14日「『幸福の科学大学創立者の精神を学ぶ』II(概論)」より)
多くの国民が期待する幸福の科学大学(仮称・設置認可申請中)の開学
現在、学校法人幸福の科学学園は、幸福の科学大学(仮称・設置認可申請中)の2015年4月開学を目指しています。2014年9月1日には、17万5,110名分の幸福の科学大学開学を求める署名と約8,000枚の嘆願文書が、幸福の科学大学建立推進委員会より内閣総理大臣宛てで内閣府に提出されました。
建設が進む千葉県・長生村(ちょうせいむら)では、見学会に400人以上の中高生が参加。幸福の科学大学に対する国民の期待はますます高まっています。
2つ誤解が日本の学問に限界を作っている
多くの専門家が生まれている学問の世界。しかし、日本の学問は2つの考え方によって限界を作っています。
再確認(1) 宗教の教義をもとにした学問も存在する
その1つは、「宗教の教義として説かれたものは学問ではない」という考え方です。
しかし実際は、キリスト教においてもキリスト教神学には2000年の歴史があり、仏教は当初、高等学問として日本に輸入され、日本人の宗教観の基礎になっています。このように、宗教の教義をもとにした学問が成り立っていることも事実なのです。
「宗教においては、神の啓示なるものは二度と降りてこないことは数多くございます。繰り返し検証に堪えるから学問性が高い、というのは一種のドグマ(教条)であると言わざるをえないと思いますし、宗教のように一定の歴史の間そうした思想内容を伝え、多くの者が学び、集団を形成し、また歴史や文化に多くの影響を与えてきたものに関しては、これはもちろん学問的研究の対象になると言ってよいものではないかと思います」(2014年8月10日「幸福学概論」より)
再確認(2) 学問のもととなるオリジナルの思想に「注」や「引用」は存在しない
2つ目は、「『注』や『引用』の類がある学術論文の体裁をとっていなければ学問ではない」という考え方です。
しかし、古代ギリシャにおいては、ソクラテスの言行をプラトンやアリストテレスが体系化し、この地は「学問発祥の地」と呼ばれています。また、注や引用なしで『善の研究』を書いた西田幾多郎は日本初の独創的な哲学者として認められ、マネジメントの父P・F・ドラッカーはほぼ一代で「経営学」を作り上げているのです。
「(私は)基本的に本をいっぱい書いておりますけれども、巻末に注でいろんなものを引用して『ここから引用した』みたいなもので論文作成したように本を書くということは、ほとんど、基本的にはありません。自分の考えとして述べているということでございます。ですから、それが学術的でないと思う人は、それは二番煎じの学問を学問だと思っている人の考え方であって、オリジナルというのはだいたいこういうもので、自分の頭から紡ぎだしていった思想を語り、それが本になったものがオリジナルですね」(2014年8月19日「西田幾多郎の『善の研究』と 幸福の科学の基本教学『幸福の原理』を対比する」より)
学問的高みを伴う幸福の科学教学
その思想を世に問い続けて30年。一代にして刊行された書籍は、現在1,700冊以上になります。全世界約1,200万人の信者が幸福になることで、幸福の科学教学の学問的高みを実証し続けています。
「それぞれの専門家が小さな虫の目で見ているやつを、やはり鳥瞰するような目で全体が見えるような学問的力が今必要だな、と。たとえばこの国の運営、あるいは世界の運営を考えたら、その拡散している知識体系を鳥瞰して見える、価値判断ができるような目が必要だな、と」(2014年8月14日「『幸福の科学大学創立者の精神を学ぶ』II(概論)」より)
「幸福の科学があり、幸福の科学大学でのそうした学問的な教えが世界の学問に影響を与えるような未来がやってくると、非常に望ましいことなのではないかと考えている次第です」(2014年8月15日「『宗教社会学概論』―人生と死後の幸福学―」より)
真理の探究という、学問の本質を体現する幸福の科学大学を求める声。この新しい学問的潮流は、誰も止めることはできないのです。
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